科学技術情報のメディアとしての学校教育

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科学技術情報のメディアとしての学校教育

田中浩朗


 前号の高橋さんに引き続き、田中さんに"科学・教育・メディア"の問題を現場での経験をふまえて論じてもらいます。仮説実験授業のことなど、夏の合宿でお話を伺った際、大変興味深く感じた話題です。ここに記された話題について、さらに詳しく知りたい方は、是非田中さんに連絡を取ってみてください(土曜講座ホームページも利用できます)。ご意見ご感想もお寄せ頂けると幸いです。■

★1.はじめに

 『どよう便り』第10号で高橋真理子さんが「メディアとしての科学博物館」について紹介・議論されていました。ここではその議論を参考にしつつ学校教育の分野における科学技術コミュニケーションの現状と可能性について考えてみたいと思います。

★2.メディアとしての学校教育

 高橋さんは、昨年の土曜講座夏合宿で取り上げた『科学技術時代への処方箋』(北樹出版、1997年)の第9章「科学技術コミュニケーション」(若松征男氏著)を参考に議論を始められたので、ここでも同じ流儀でいかせてもらいます。

 科学技術と一般社会を結ぶ情報伝達手段(メディア)には、教育・宣伝/広告・マスメディア・インターネット・図書館・科学博物館・サービス/製品があり、その中でも大きな役割を果たしているものとして教育とマスメディアがあるとされています。一般の人々が科学技術情報を受け取るところは、学校教育を受けている間は学校であり、教育を終えた後はマスメディアから、というのです。若松さんの論考では教育について詳しい言及がなかったのでここで少し紹介しておきます。

 学校では科学技術情報がどのように扱われているでしょうか? 科学博物館の場合と違って、学校での理科の授業は誰でも受けたことがあるので何らかのイメージは浮かぶと思います。学校での理科の授業は学校によって、また先生によってそれなりに違うのでどれだけ一般化していえるか分かりませんが、理科教育という分野(業界)に6年余り籍をおいた者として僕のイメージに沿って描いてみたいと思います。高校以下の教育現場に立った経験はありませんので、現場の先生はまた違ったイメージをお持ちかもしれません。

 まず、今までの学校では、明治以来の教科ごとに知識が分割されており、様々な知識は その教科・科目の枠組の中で教えられてきました。現在の教科・科目の中に「科学技術」と いう名のものはありません。したがって、科学技術情報は様々な教科・科目の中で扱われています。

 このように言うと「理科はどうなんだ、科学技術は理科が担当しているのではないか」と思う方もいるかも知れません。確かに、自然科学は理科固有の内容です。しかし、理科イコール自然科学科なのかというとそうではありません。理科には、自然科学以外に"自然体験"が大きなテーマとして含まれてきました。これは必ずしも科学的とはいえないものです。"心の教育"的要素の強いものです。最近、環境教育を学校でもしなければならないということになり、環境を大切にする心を育てるにはまず自然体験から、ということで理科の中で環境教育を行なうことが期待されています。

 理科にはまた、生活や産業の技術に関わることも含められることがしばしばありました。これは、科学の難しい理論を身近な例や産業の例で親しみやすくする目的と、国民の生活を科学的にする目的があったようです。現在再び生活や産業と科学の関わりを取り上げる傾向にありますが、その目的は前者の"身近な科学"的発想が強いと思います。

 ここで注意しておかなければならないのは、理科で自然科学や技術の問題が扱われているからといって、理科で「科学技術」情報がちゃんと伝えられる体制になっているわけではないということです。理科で取り上げられる技術は、あくまで科学の添え物として扱われ、技術自体が主題として学校で技術を主題にする教科としては、中学校の技術科があります。しかし、そこで扱われる技術は木工や金属加工、あるいは機械技術や電気技術の技能面の教育が中心となっています。そこでは、技術とは何かといったテーマや技術と科学、技術と社会の関係などが扱われることはほとんどありません。ちなみに、同様のことは自然科学についても言えて、理科において科学とは何かというテーマや科学と技術、科学と社会の関係が扱われることもほとんどありません。

 さらに、技術科で扱われる技術は産業技術が中心で、生活や健康に関する技術は家庭科や保健体育科などで扱われることになっています。また、社会との関わりの面に関しては社会科(地理・歴史科、公民科)で扱われることになっています。

 以上見てきたように、科学技術情報は学校においては様々な教科・科目でバラバラに教えられており、しかも教科間での連絡・調整などはほとんど行なわれていません。したがって、一般の人々が「科学技術」についてまとまった知識やイメージを持つ機会は今までの学校教育の中ではないのです。

★3.理科教育界の潮流

 私は理科教育界のことしか分からないので、以下理科教育界の現状と問題点に関する私の見解を述べたいと思います。

 理科教育界の主流は常に文部省の路線にあります。現在、高校以下の学校の教育が文部省告示の学習指導要領によって規制されていて、検定教科書もそれに則ったものなので 当然とも言えます。

 戦前は国定教科書などもあり、教育界もかなり不自由だったのではとのイメージを持ちがちですが、実際は文部省路線以外にも様々な教育実践が行なわれ、しかもその成果が文部省の路線にも大きな影響を与えてきました。むしろ自由になったはずの戦後の方が画一的かもしれません。それには受験競争の激化が背景としてあるでしょう。進学率が高くなると学校も受験を意識せざるをえなくなりますが、入試の試験範囲は指導要領に規定されているので、指導要領を無視することはできなくなるのです。

 このような状況ですから、文部省の指導要領を公然と批判・無視して独自の教育体系を作るような民間の教育運動は少なく、また勢力もそれほど大きくなり得ません。その中で例外的に成功し、着実に勢力も拡大しているのが仮説実験授業・「たのしい授業」運動です。

★4.文部省路線

 いじめや不登校を初めとする様々な教育問題が続く中で文部省は既成の"知識重視の教育"から"子どもの意欲・関心を中心とする教育"への転換を図ろうとしています。その結果、新しい試みが導入されつつあります。

 小学校低学年で理科や社会科を行なうのをやめ、幼稚園との連続性を考えた生活科を導入したのはもうずいぶん前のことです。高校の理科に身近な生活との関係を重視した物理IA・化学IA等の科目ができたのも特徴的です。さらに最近は教科の枠を越えた総合的学習の研究も盛んです。環境・国際化・情報化など現代的問題について子どもの主体性を生かした学習をさせるのです。

 総合学習では科学技術と社会の関係を扱うSTS教育も注目されています。STS教育には私自身けっこう長い間関わっているので、こうした動きは歓迎すべきなのかも知れません。しかし、今のところ手放しで喜んでいられる状況にはありません。

 子どもの意欲や関心を重視すること自体は決して悪いことではなく、むしろ当然のことです。問題は、それがきわめて表面的にしか行なわれていないことにあります。子どもの意欲・関心を重視するとなれば、授業で何を扱うかということも大幅に組み替えなければなりません。しかもその組み替えには、子どもやその親、あるいは他の市民も参加すべきです。内容は今までと同じで意欲・関心を重視するとなると、遊びや珍しい実験で一時的に子どもの気を引くか、面白くないことでも教師の気を引くために意欲的にふるまうことを強制するかということになりがちです。学校は強制力を持っているため後者のようなことが可能ですが、来場者に対して強制力のない科学館などは前者の安易な参加・体験型展示で対応することになりがちです。

 現在の指導要領から導入された生活科や高校理科のIA科目群、あるいは総合学習なども、それが優れた教師によってうまく実施されればとてもいいのです。問題は、その科目をうまく指導できる教師が果たしてどれほどいるのかということです。これらの科目は子ども中心、テーマ中心であるため、大学でならった既成の知識や教師向けの様々なマニュアルでは対応できません。授業に対して強い熱意を持った教師とそれを支援する様々なシステムがあって初めて可能になるものです。

 教員養成や研修の場での対応も当然必要です。しかし、そうした準備はほとんどなされないまま、文部省は新しい方針を決定し、現場に押しつけ、現場はそれに振り回されるのです。

★5.仮説実験授業

 仮説実験授業とは、1963年に国立教育研究所研究員(当時)の板倉聖宣氏が提唱した科学教育の新しい授業法(あるいは教育理論・教育実践)で、文部省路線を批判する数ある 民間教育運動の一つです。

 私がこの運動に関心を持っているのはいくつか理由があります。第1に、多くの新しい教育法は一過性のブームで終わることがほとんどですが、仮説実験授業は30年以上続いていて、しかも理論的にも実践的にも着実に発展しています。このこと自体が大変珍しく研究に値します。第2に、考え方が文部省路線と対極的で、文部省の指導要領を全く無視していることも、思考の幅を広げる上で大変参考になります。第3に、着実に発展している教育運動として、その全体を受け入れるかどうかは別に、学ぶべき点がたくさん見つかるということがあります。この運動は強烈な個性を持っているため、受け入れるか拒否するか人によって評価が真っ二つに分かれる傾向にありますが、もっと冷静に対応すべきだと思います。 さて、仮説実験授業も最近の文部省と同じように子ども中心の教育を目指してきました。それは現在「たのしい授業」という標語に表現されています。文部省路線と違うところは、遊びや物珍しさによって子どもの興味を引くといった安易なことをするのではなく、科学の基本的な概念や法則を発見・理解することで科学の楽しさを体験できるよう独自教材の開発に力を入れたことです。教えるべき内容を先に決めてから教え方を考えるのではなく、うまく教えられる内容のみを教えるという原則を貫いています。したがって、指導要領や教科書に書いてあることは何でも仮説実験授業で教えられるというわけにはいきません。指導要領を絶対的存在と思っている人にはこの点でひっかかってしまいます。

 また、仮説実験授業では、教師が与えたテーマについて興味や意欲を持つことを子どもに強制するようなことは極力排除しようと気をつけています。そのため、文部省路線では盛んに行なわれている子どもの関心・意欲を教師が評価(測定)するようなことはしていません。むしろ、教師の行なった授業が楽しかったかどうか子どもに評価してもらっています。そして、子どもの評価の高かったもののみを共通の財産として蓄積しています。

 仮説実験授業が着実に発展してきた背景には、その研修体制があると思います。仮説実験授業運動は派手な拡大路線はとりませんでした。その教材は優れたものであり、書籍等の形で出版すればよく売れ、運動ももっと広くしかも急速に知られていくと思われます。しかし、あえてそのようなことはしませんでした。仮説実験授業の教材には面白い実験が含まれているのですが、それがつまみ食い的に広まってしまって、それを知らないことを前提にした授業がやりにくくなるのを恐れたということもあります。また、仮説実験授業は教材の内容や授業運営法、あるいは仮説実験授業の背後にある思想等について十分勉強した人にのみやってほしいということもあったようです。ベテラン教師による教材ごとの入門講座・体験講座が各地で頻繁に開催されています。地域ごとのサークル活動や全国レベルの研究大会なども盛んに行なわれています。そうした地道な活動を通してじわじわと広がっているのです。 仮説実験授業は、一連の問題について子どもたちが予想を立て、討論し、実験でどの予想が正しかったか確かめるという過程を繰り返します。そうして昔の科学者が科学的な概念や法則を獲得するまでの試行錯誤を追体験することができます。それは研究をする楽しさを体験することでもあります。学校で仮説実験授業をやるようになった現場の先生方も、この仮説実験授業を自ら体験することで科学の楽しさを初めて感じたという方が少なくありません。自分が面白いと思ったことは子どもも面白いと思うだろうということでその授業をするのです。 

 研究の楽しさを知った先生は、自ら様々なテーマで研究を始めるようになります。それが発展して新たな教材になることもあります。その研究は大学等の専門研究者のものとは違った民衆レベルの研究ということができます。

★6.教員養成の現状

 さて、私は現在、福岡教育大学という教員養成のための国立単科大学に勤めています。その理科教育講座に所属し、主に理科教育について教えています。ここで教員養成の現状と問題点をうちの大学を例に紹介してみます。

 教員養成大学・学部(以下、教員養成大学あるいは教育大学と略します)の長年の問題点は、教育に関心のない、あるいは教育をバカにするスタッフが多いということです。このことは、外部の人には理解しがたいことかもしれません。教員養成のための教育学部の教員でありながら教育に関心のないということなど、何重にも矛盾していると思われますが、現実にはそのような教員が多いのです。そのような教員に教えられた学生がいい教師になると考えること自体無理のような気がします。

 教員養成のカリキュラムは教育職員免許法に則って、教科専門科目と教職専門科目に分かれています。この教科専門科目というのは、各教科の内容に関するもので、理科なら自然科学系の諸分野(物理学・生物学等)となります。すべての教科についてそれぞれの専門家が必要なので、教科専門の教員だけでかなりの数になり、ミニ総合大学の趣があります。そして、教員は意識の上でも総合大学の理学部や文学部等の教員と同じという人が多いのです。理学部等に就職したかったがポストがなくて教育大に来たという人の場合、コンプレックスがある分、より学問志向(教育軽視)が強くなることもあります。

 このような大学で養成された教員が現場で先に紹介したような文部省路線の教育を行なっていくのです。学校教育における科学技術情報の伝達は教科の壁によって分断されていたわけですが、教科の壁はそっくり教育大学の中にもあります。しかも教科専門の授業は学校での教育を意識したものでは必ずしもなく、担当教員の学問的関心に基づいて個々の学問そのものを学ぶものとなっています。大学の中にそうした諸学問を統合し応用して教育に活かしていくことを学ぶ場はほとんどありません。様々なことを学んだ学生個人が自力でそれを行なっていくしかないのです。しかし、それはきわめて困難なことです。 このような教員養成大学はいったん滅びるべきなのかも知れません。わが大学でも大学改革委員会を先頭に「改革」を進めていますが、上に述べたような根本的問題を直視したものでは全くありません。

★7.学校教育における科学技術コミュニケーションの可能性

 現在の文部省路線は、その実態はともかく、その理念は決して悪いものではないと思います。文部省は指導要領による拘束を緩める方向で動いています(君が代・日の丸強制などは別として)。

 教える内容や方法について現場教員の裁量は大きくなりつつあります。総合的学習を増やし、教科の枠を緩めつつあります。この傾向は、能力と意欲のある教員の活躍の機会を広げると同時に、能力も意欲もない教員の困惑を生み出します。学校教育のあり方を左右するのはやはり現場教員であり、この新しい事態に教員が対応できないとき、現在の規制緩和はまた逆方向へと進むことになるでしょう。

 ここで現場の先生方に頑張ってもらわなければならないのは当然なのですが、ただ先生方の尻をたたけば事が済むわけではありません。能力や意欲を高めようにも、毎日の仕事に追われて疲れ果てている教員も少なくないでしょう。教員にもっと余裕を持って仕事をしてもらい、十分な研修の機会を保障し、授業をするための知的・人的・物的支援を与えることが必要です。

 最後に、学校教育における科学技術コミュニケーションの夢を描いてみたいと思います。 学校で子どもたちが主体的に科学技術について学んでいく際、要になるのは授業を行なう学校教員です。日々子どもたちに接し、子どもたちの実態を把握できる教員が主体的に動いてこそ初めて科学技術が一般市民のものとなる可能性がでてきます。これは仮説実験授業の運動が示唆していることです。

 しかし、仮説実験授業にも難点がないわけではありません。というのも、仮説実験授業運動を進めている人はほとんどが現場教員であり、科学技術の専門家は提唱者の板倉氏を含めて少数しかいないのです。科学技術の専門家集団と組織的につながるルートが確保されていません。

 科学技術と子どもたちを結ぶ仲介者(メディア)には学校の他に教育大学があると思います。教育大学の教員は、各学問分野の専門家であり、それぞれの専門家集団の一員です。また同時に学校の教育にも関わっており、直接子どもに接する機会は少なくても、現場教員を通して子どもや保護者・地域社会と結びついています。一般市民(子ども)-学校-教育大学-科学技術というつながりができるのです。そこで教育大学はまさに科学技術と一般市民が交差する場であり、どんな科学技術情報をいかに伝えればいいかということについて専門家と学校教員、そして一般市民が真剣に議論するのにふさわしい場だと思います。教育大学は単に教員を養成するだけでなく、現場教員や一般市民をもっと受け入れ、科学技術情報の提供に関する知的・人的・物的支援のセンターであるとともに、一般市民の気持ちを理解し、その声を専門家に伝えるパイプとしても機能するべきです。

 そうした教育大学の活動は、学校教員の養成にとってのみ意味のあることではなく、科学技術と一般市民をつなぐ様々なメディア関係者、たとえば科学博物館の学芸員や科学ジャーナリスト等の養成にも役立つでしょう。そのような機関と現在の教育大学のギャップは気が遠くなるほど大きいものですが、教育大学再生の可能性はあるということをここに記しておきたいと思います。

 教育大学はもちろん、すべての学校を変える第一の責任はそこに勤める教職員にあるのですが、自ら変えていくのは本当に難しいことです。学校は今まで文部省によって上から変えられることが多かったのですが、これからは下から、つまり子どもや保護者、そして一般市民の支援や圧力によって変わっていくべきだと思います。みなさんの近くにも孤軍奮闘している先生がいるかも知れません。そうした先生を是非とも暖かく応援して欲しいと思います。■

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